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どうも、テクトンです。
今日の仕事はほぼ掃除をして過ごす。
それはそれで楽しい。
自分=クソという考えにはまり込むあまり、気分が悪くなる。
これもそのうち慣れるだろう。
D株は先日からNoMovement 1500×0.8=1200
絶賛含み損である。
クソ社員の定義 - 後編 俺たちは如何にクソ社員であるか②
こんばんは、テクトンです。
今回は前回に引き続き、俺たちは如何に「クソ」であるかを説明していく。
前編では自分たちの立ち位置を書いたが、後編ではそこからの「クソであることへの覚醒」を書いていく。
覚醒の第一段階はあまりにも暇すぎる状況の果てに起こった。
前編で書いたスキームは時がたつにつれ、さらに磨かれていった。
管理職でもないのに自分が働く必要が相当少なくなった。
自分の仕事はあっという間に終わり、ただただ暇、これが数年単位で続き今も続いている。
この状況は精神衛生上決してよいとはいえない。
周りとの関係性を意識的に断ち切り、向上心を消す。あまりの無風状態に精神が鬱傾向に陥ってくる。
仕事にはいい面も多数存在する。「仕事が人を作る」はかなり正しいと思う。
仕事からは、報酬に加え、責任感や向上心、成し遂げた時の喜びや成果に対する自信とか、計り知れないほどの価値ある体験が得られる。
だが自分たちは、それを「決まった量の金をもらうこと」のみに限定した。負の方向のストレスも正の方向のやりがいも同じ負荷であると考え、それを減らす方向にのみ特化した。
そしてコロナ過。絶望的なほどの暇、議論も雑談もネタがなくなり、座りつつ寝落ちからの一時間経過がスタンダードとなり、さらにネットサーフィンでも検索するものがなくなってきた。
気づきはこの段階で起きる。
2人の時はまだよかった。何にせよだべるということは内容に関係なく暇つぶしになりえる。そんな中、同僚Qが連続して休む事象が発生した。
一人になった俺はやみくもにネットの世界に没入した。そしてすべてに飽きた。
会社ではゲームなどの気分転換的な遊びはリスクが高いのでできない。誰かがきたらすぐに仕事しているふりをしなければならないからだ。
俺は人生とは退屈でありそれをどのようにとらえたらいいのかを検索しだした。
そこで「退屈とは余裕から生まれるものであり、そこに至ったということはさらにその先の悟りの世界につながる場所にまで到達したのだ」という投書を読んだ。
ここで価値観が変わった。
スキームがひとつの到達点に達したと感じた。
会社は自分に「所属することで得られる自尊心」は与えてはくれなかったが、「それはそれでいいのだ」と自分が肯定されている気分になった。
そしてさらに、まだこの先があることを直感的に感じた。
退屈の先なんてのはあんまり考えたことがなかった。退屈とは悪いもので時間を有効につかえていないし、「自分の成長が止まっている証」的なものだと思っていたが、真逆の価値観「俺の人生に余裕がある証拠」に裏返ったのだ。
退屈であるということは方向性として正しい。そしてそれは解消されるべき無価値で無意味な状態ではなく、ここから先をさらに追及するにふさわしい、今まで気づいていなかった価値観であったのだ。
そのあたりから仕事中に瞑想をとりいれることになる。
昼寝やネットサーフィン・雑談の時間を、ただ座って何も考えないことにあてた。
このころから、何か有用なことや刺激になること成長につながることを行っていなくてはいけないという強迫観念が薄れていくようになった。
自己啓発的な話・ネット記事の「追い込んでくるような感じ」「成長しなくてはならないような焦燥」に動じなくなってきた。
鬱的精神状態は見る間に解消された。
さらに、クソサラリーマンとしての自分を卑下することが無くなった。
すべてはそのようなことではなく退屈を追求する中に答えがあるのだ。
そして第二段階の覚醒「自分をクソ認定すること」に達する。
これは「人生よよよさん」のセミリタイアブログなどを読んでいるうちに、自分は有能であるなどという幻想は捨て去ったほうがいいのではないかと思うようになった。
この幻想は入社以来自分を蝕んできた。
人間誰もが見下されるのは嫌だ。そのためそれを回避するためにみんな頑張っている。自分もその口だ。
それをやめたらどうだろうか。
なんどもそのことは考えたが、有能でありたい病はすぐにぶり返す。
この解決法は簡単だった。自分は有能でないと設定すればいいのだ。
要するに「クソ」だと。
そしてこれは正確な評価である。
クソの対義語が「まっとう」だとすると、まっとうに会社に貢献する者が有能だということになる。
自分たちはこれとは真逆の方策を実行しているのだから。
このクソ評価により自分の中の認識が一変した。
今までは有能(?)な自分がクソ会社(環境)で働いているという認識だった。
ただそれだと「有能であること」、もしくは「クソでないこと」を常に高い次元で証明しなくてはならなくなる。
これがつらい。自分の価値を高め続けなければならないからだ。
これを自分はクソであるとの評価に変えるとどうなるだろうか?
まず有能である必要が無くなる。そしてクソがクソ環境にいることは問題にはならない。
クソ社員は有能である必要はないが、クソであることが発覚しないようにしなければならない。それがばれると粛清が待っているから。
なので「まっとう」であるというカモフラージュが必要となる。
前者でも後者でも真の姿を隠すのは同じだが、その労力が違う。
「自分=有能」観だと、一定の価値観よりも上でいなければならない。それは相対評価となるなるため競争原理が働いてしまう。競争するためには努力や成長が必要となる。
一方「自分=クソ」観だと、「まっとう」にみられればいいわけであって有能でなくてもよい。それは背伸びとか成長とか改善とか進歩とかイノベーションとか自己啓発などとは別次元の問題となる。自分がクソとして認識されなければとりあえずはOKなので、まっとうという衣をはおるか否かという絶対評価ですむのだ。
自分は会社での地位が低いため自分にとっての「まっとう」はごく一般的な事柄で済む。「有能」は違う。有能は相対評価だから本当にできるやつと張り合う必要がある。
そうするとクソであると認識していた環境こそ、クソである自分を隠すことができるブッシュであるということに気づく。
クソ環境の中でおぼれないよう有能であるようにふるまうか、クソ環境の中で環境に溶け込むようにひそむか。
どちらが労力が低いかは自明である。
ただ一つ、人間は希望がなければ生きていけないというのもまた真である。
ここクソ環境での希望は、有能であることの証を得ることではない。
クソ環境から脱出することである。
その時俺は「クソ社員」からも卒業できる。
それは「セミリタイア」しかない…
クソ社員の定義 - 前編 俺たちは如何にクソ社員であるか①
こんばんは、テクトンです。
昨日は上司が不在だったため、仕事中「クソ社員の定義」を徹底的に議論する。
議論は白熱し、一日のほとんどはその過程で消費された。
これこそがクソである所以である。
今回は自分たちが「如何にクソ社員であるか」ということを語りたい。
先の記事で書いた「自分=クソ」であるという認識は、いままでの「自分=まとも」からのコペルニクス的転回であり、これにより、仕事に対する自分の立ち位置、働き方の意識付けなどの再定義が必要となった。
要するにクソとして生きることに決めたのだ。
それを説明するには、まず、俺らの仕事に対する考え方・取り組みを説明する必要がある。
私たち(私テクトンと同僚Q)が作り上げた「会社での仕事スキーム」は、少々特殊である。
私たちはしがないサラリーマンであるにも関わらず、働かなくても成立する状況をいかに構築するかを再重要課題とし、10年以上かけて以下の「環境」を作り上げた。
1. 自治権の獲得
2. 上司・他所からの干渉を排除
3. 定時出社→定時帰宅
4. 過剰労働力の確保
5. 従来の仕事を減らし、新たな仕事を受け付けない
6. 暇つぶし時間・場所を合理的に確保(ネットサーフィン、雑談討論、昼寝可)
これらは一朝一夕には実現されず、必死で「自治権」を獲得しそれを維持していく過程で、リーマンショックやアベノミクスなどの社会情勢の移り変わり・そして会社の人事的な問題などをうまく利用してコツコツと積み上げてきた。
これは会社の利益に反する状況であると自分らは感じたが、特殊状況の追求は、会社及び社会の変化もしくはプレッシャーから自分らが逃れ、適応し、生き延びるためには必要なことでもあった。
会社に自分たちは相当な損を強いられているため(現にパワハラやサービス残業などはひどかった)それへの報復的意味合いもあった。
すなわち、自分たちがクソなのではなく、自分たちを追い込んだ環境がクソであり、コントロールできない無能どもが悪いのだと… そう自分らの立場を正当化させた。
そしてその状況で問題なくシステムが進行している以上、会社に対して自分らが積極的にコミットメントしていく必要はないとも考えた。(これは出世なり昇給が当初から制限され、その可能性を閉ざされたこと、またそれにあがなって上を追求する負荷とを天秤にかけた結果、自分たちからも閉ざしていったという歴史にも起因する)
以上が先日までの「クソ認識していない」、筆者のサラリーマンとしての立ち位置である。
この立場だと、自分らはサラリーマンとして有能だとは決して言えないが、一方で、無能(=クソ)だとも断定できない。
しかし、ここにいる限りは相対的に見て無能=クソだと感じざるを得ない。
ただこの評価は周りにはカモフラージュされているため、あくまでも自己評価である。(出世等の高評価はないまでも1~6を実現する程度の状態にはある)
ここにはまだ「自尊心の残りカス」が存在する。
自分は有能であるという可能性はまだ生きているのだ。
だがそれ以上に大いなる矛盾もはらんでいた。
その有能さを証明する手段が現環境にはないのだ。
すなわちここから出たまっとうに仕事のできる場での結果でしか、自分の仕事の評価が分からないのだ。
この葛藤は自分を深く蝕んだ。
まっとうな社員はまっとうに会社にコミットメントし、それなりの評価を得、仕事を遂行していく。そしてその中で仕事を通したアイデンティティーを確立していくのがサラリーマン人生というもの。
自分らはそれとは逆の方向に進んでいかざるを得ず、まっとうなふりをし、クソである部分を覆い隠す方法で時を稼ぐ。これは決して満足感を得られることではないし、自己評価(自信)を高めることにもつながらない。
このような環境から逃れるには、まっとうな環境へ移動するしかない。それが現職では与えられない。ならば転職か? しかしこの線はなかった。
作り上げた「特殊環境」は相当なレベルで機能しており、他のワークライフバランス等は申し分ない。そのため生来のなまけ性向にもマッチし、とても居心地がいいのだ。
とするとこれを超える環境は脱サラかセミリタイアしかない。
そしていつしか、俺らの間では現職からの脱出が合言葉となっていった。
ここではまだ自分ら=クソという転回は起こらず、依然として「特殊環境」は維持・増強されていくのだった。
つづく
自分が”うんこちゃん”であることを脳髄に叩き込む
こんにちは。
TKことテクトンです。
本日は青い空が澄み渡り、絶好のサボリングDAYとなる。
昨日会社で、久しぶりの吊るし上げをくらい、一睡もできず憂鬱な出社。
これを逆手に、昼飯食ってから、体調不良(睡眠不足)で早退をGET!!!
爽快な冬晴れの下、颯爽と家路につきます。
帰って早々PCを開くと、我が心の投資案件【D株】は「元値30%OFF」の値を付け、煉獄モードに突入しております。1500×(1-0.3)=1050
利確はいつになるのやら┐(´∀`)┌
さて打って変わってブログの話、
このような自分だが、ブログをやるようになり自分のキャラ付けを気にしだした。
「自分はできる男だが本気は出さない」こんな自己像をイメージし続けて数十年、今回改めて自分を客観視した結果、ブログの題名通り、「クソ投資家でダメリーマン」であることが如実に浮かびあがってきたのだ。
詳細は今後綴っていこうと思うが、
それはもうセミリタイヤだとかいって独自路線を突き進むのだから、仕方がないし修正もきかない ort...
こんなことに今まで気づかなかったなんて、悲しいが改めてブログ効果すごい。
もうブログを書き続ける以上は、このスタンスを崩さないようにいこう。
「クソ」「うんこ」 これが自分にとっての正解なのだ。
俺=うんこ この美しく安定した公式を脳髄に叩き込む。
孫正義の記事を読んだり、ジョブスの言動を思い出したり、元亀天正の乱世を思い描いたり、腐海を焼き尽くそうとしたりしても、俺=うんこを忘れない。今決めた。
どのみち「やる気」があったことはほぼない、ただ周りの空気につられて一緒に走ってきただけだ。
今は周りの空気も凍結し、会社・社会という存在に精神的に求めるものは一つも無くなった。
さびしいかぎりだがそれを言い訳にはできない。
その先に続いているであろうセミリタイアの地平に向かって日々歩を進めるのだ!ぞ
というわけで、マイクラを起動させるのであった
自己紹介です
こんばんは。
TKことテクトンです。
自分、かれこれ15年近く工場系リーマンを務めあげておりますが、本日も不安全行動を指摘されつるし上げにあう、進歩することを否定した「一匹のおさーん」です。
このようにへこんだ際も、「ダイジョブ、俺はセミリタイアですべてをひっくり返せる」という宗教を信じ込んで、日々を消化していくのであります。
さて、そのセミリタイアの方法ですが、何も持たない私達しがないリーマンは、一般的には以下のパターンで夢を描くのではないでしょうか?
1:漫画家、小説家からの脱リーマン → 一撃印税富裕層
2:しこしこ貯金で堅実にせめる
3:投資による大どんでん返しでハイさいなら
自分はやはり「1」から攻めました。
そして当然の挫折。
そこからただひたすら自宅と会社の往復を繰り返し、たまった金は1500マン
これで「3」の一発逆転にベットした訳であります。
3/1 ブログはじめます
本日思い立ってブログをはじめることにしました。
長年の夢 「セミリタイア」
サラリーマン、そして、くそ投資家としての己を見定め、
その行き着く先を見極めるために、記録として残していくものであります。
また、日々の経過、思いも綴っていきたいと思います。
これからどしどし書くぞー! おー (^.^)/