クソ社員の定義 - 前編 俺たちは如何にクソ社員であるか①
こんばんは、テクトンです。
昨日は上司が不在だったため、仕事中「クソ社員の定義」を徹底的に議論する。
議論は白熱し、一日のほとんどはその過程で消費された。
これこそがクソである所以である。
今回は自分たちが「如何にクソ社員であるか」ということを語りたい。
先の記事で書いた「自分=クソ」であるという認識は、いままでの「自分=まとも」からのコペルニクス的転回であり、これにより、仕事に対する自分の立ち位置、働き方の意識付けなどの再定義が必要となった。
要するにクソとして生きることに決めたのだ。
それを説明するには、まず、俺らの仕事に対する考え方・取り組みを説明する必要がある。
私たち(私テクトンと同僚Q)が作り上げた「会社での仕事スキーム」は、少々特殊である。
私たちはしがないサラリーマンであるにも関わらず、働かなくても成立する状況をいかに構築するかを再重要課題とし、10年以上かけて以下の「環境」を作り上げた。
1. 自治権の獲得
2. 上司・他所からの干渉を排除
3. 定時出社→定時帰宅
4. 過剰労働力の確保
5. 従来の仕事を減らし、新たな仕事を受け付けない
6. 暇つぶし時間・場所を合理的に確保(ネットサーフィン、雑談討論、昼寝可)
これらは一朝一夕には実現されず、必死で「自治権」を獲得しそれを維持していく過程で、リーマンショックやアベノミクスなどの社会情勢の移り変わり・そして会社の人事的な問題などをうまく利用してコツコツと積み上げてきた。
これは会社の利益に反する状況であると自分らは感じたが、特殊状況の追求は、会社及び社会の変化もしくはプレッシャーから自分らが逃れ、適応し、生き延びるためには必要なことでもあった。
会社に自分たちは相当な損を強いられているため(現にパワハラやサービス残業などはひどかった)それへの報復的意味合いもあった。
すなわち、自分たちがクソなのではなく、自分たちを追い込んだ環境がクソであり、コントロールできない無能どもが悪いのだと… そう自分らの立場を正当化させた。
そしてその状況で問題なくシステムが進行している以上、会社に対して自分らが積極的にコミットメントしていく必要はないとも考えた。(これは出世なり昇給が当初から制限され、その可能性を閉ざされたこと、またそれにあがなって上を追求する負荷とを天秤にかけた結果、自分たちからも閉ざしていったという歴史にも起因する)
以上が先日までの「クソ認識していない」、筆者のサラリーマンとしての立ち位置である。
この立場だと、自分らはサラリーマンとして有能だとは決して言えないが、一方で、無能(=クソ)だとも断定できない。
しかし、ここにいる限りは相対的に見て無能=クソだと感じざるを得ない。
ただこの評価は周りにはカモフラージュされているため、あくまでも自己評価である。(出世等の高評価はないまでも1~6を実現する程度の状態にはある)
ここにはまだ「自尊心の残りカス」が存在する。
自分は有能であるという可能性はまだ生きているのだ。
だがそれ以上に大いなる矛盾もはらんでいた。
その有能さを証明する手段が現環境にはないのだ。
すなわちここから出たまっとうに仕事のできる場での結果でしか、自分の仕事の評価が分からないのだ。
この葛藤は自分を深く蝕んだ。
まっとうな社員はまっとうに会社にコミットメントし、それなりの評価を得、仕事を遂行していく。そしてその中で仕事を通したアイデンティティーを確立していくのがサラリーマン人生というもの。
自分らはそれとは逆の方向に進んでいかざるを得ず、まっとうなふりをし、クソである部分を覆い隠す方法で時を稼ぐ。これは決して満足感を得られることではないし、自己評価(自信)を高めることにもつながらない。
このような環境から逃れるには、まっとうな環境へ移動するしかない。それが現職では与えられない。ならば転職か? しかしこの線はなかった。
作り上げた「特殊環境」は相当なレベルで機能しており、他のワークライフバランス等は申し分ない。そのため生来のなまけ性向にもマッチし、とても居心地がいいのだ。
とするとこれを超える環境は脱サラかセミリタイアしかない。
そしていつしか、俺らの間では現職からの脱出が合言葉となっていった。
ここではまだ自分ら=クソという転回は起こらず、依然として「特殊環境」は維持・増強されていくのだった。
つづく