クソ社員の定義 - 後編 俺たちは如何にクソ社員であるか②
こんばんは、テクトンです。
今回は前回に引き続き、俺たちは如何に「クソ」であるかを説明していく。
前編では自分たちの立ち位置を書いたが、後編ではそこからの「クソであることへの覚醒」を書いていく。
覚醒の第一段階はあまりにも暇すぎる状況の果てに起こった。
前編で書いたスキームは時がたつにつれ、さらに磨かれていった。
管理職でもないのに自分が働く必要が相当少なくなった。
自分の仕事はあっという間に終わり、ただただ暇、これが数年単位で続き今も続いている。
この状況は精神衛生上決してよいとはいえない。
周りとの関係性を意識的に断ち切り、向上心を消す。あまりの無風状態に精神が鬱傾向に陥ってくる。
仕事にはいい面も多数存在する。「仕事が人を作る」はかなり正しいと思う。
仕事からは、報酬に加え、責任感や向上心、成し遂げた時の喜びや成果に対する自信とか、計り知れないほどの価値ある体験が得られる。
だが自分たちは、それを「決まった量の金をもらうこと」のみに限定した。負の方向のストレスも正の方向のやりがいも同じ負荷であると考え、それを減らす方向にのみ特化した。
そしてコロナ過。絶望的なほどの暇、議論も雑談もネタがなくなり、座りつつ寝落ちからの一時間経過がスタンダードとなり、さらにネットサーフィンでも検索するものがなくなってきた。
気づきはこの段階で起きる。
2人の時はまだよかった。何にせよだべるということは内容に関係なく暇つぶしになりえる。そんな中、同僚Qが連続して休む事象が発生した。
一人になった俺はやみくもにネットの世界に没入した。そしてすべてに飽きた。
会社ではゲームなどの気分転換的な遊びはリスクが高いのでできない。誰かがきたらすぐに仕事しているふりをしなければならないからだ。
俺は人生とは退屈でありそれをどのようにとらえたらいいのかを検索しだした。
そこで「退屈とは余裕から生まれるものであり、そこに至ったということはさらにその先の悟りの世界につながる場所にまで到達したのだ」という投書を読んだ。
ここで価値観が変わった。
スキームがひとつの到達点に達したと感じた。
会社は自分に「所属することで得られる自尊心」は与えてはくれなかったが、「それはそれでいいのだ」と自分が肯定されている気分になった。
そしてさらに、まだこの先があることを直感的に感じた。
退屈の先なんてのはあんまり考えたことがなかった。退屈とは悪いもので時間を有効につかえていないし、「自分の成長が止まっている証」的なものだと思っていたが、真逆の価値観「俺の人生に余裕がある証拠」に裏返ったのだ。
退屈であるということは方向性として正しい。そしてそれは解消されるべき無価値で無意味な状態ではなく、ここから先をさらに追及するにふさわしい、今まで気づいていなかった価値観であったのだ。
そのあたりから仕事中に瞑想をとりいれることになる。
昼寝やネットサーフィン・雑談の時間を、ただ座って何も考えないことにあてた。
このころから、何か有用なことや刺激になること成長につながることを行っていなくてはいけないという強迫観念が薄れていくようになった。
自己啓発的な話・ネット記事の「追い込んでくるような感じ」「成長しなくてはならないような焦燥」に動じなくなってきた。
鬱的精神状態は見る間に解消された。
さらに、クソサラリーマンとしての自分を卑下することが無くなった。
すべてはそのようなことではなく退屈を追求する中に答えがあるのだ。
そして第二段階の覚醒「自分をクソ認定すること」に達する。
これは「人生よよよさん」のセミリタイアブログなどを読んでいるうちに、自分は有能であるなどという幻想は捨て去ったほうがいいのではないかと思うようになった。
この幻想は入社以来自分を蝕んできた。
人間誰もが見下されるのは嫌だ。そのためそれを回避するためにみんな頑張っている。自分もその口だ。
それをやめたらどうだろうか。
なんどもそのことは考えたが、有能でありたい病はすぐにぶり返す。
この解決法は簡単だった。自分は有能でないと設定すればいいのだ。
要するに「クソ」だと。
そしてこれは正確な評価である。
クソの対義語が「まっとう」だとすると、まっとうに会社に貢献する者が有能だということになる。
自分たちはこれとは真逆の方策を実行しているのだから。
このクソ評価により自分の中の認識が一変した。
今までは有能(?)な自分がクソ会社(環境)で働いているという認識だった。
ただそれだと「有能であること」、もしくは「クソでないこと」を常に高い次元で証明しなくてはならなくなる。
これがつらい。自分の価値を高め続けなければならないからだ。
これを自分はクソであるとの評価に変えるとどうなるだろうか?
まず有能である必要が無くなる。そしてクソがクソ環境にいることは問題にはならない。
クソ社員は有能である必要はないが、クソであることが発覚しないようにしなければならない。それがばれると粛清が待っているから。
なので「まっとう」であるというカモフラージュが必要となる。
前者でも後者でも真の姿を隠すのは同じだが、その労力が違う。
「自分=有能」観だと、一定の価値観よりも上でいなければならない。それは相対評価となるなるため競争原理が働いてしまう。競争するためには努力や成長が必要となる。
一方「自分=クソ」観だと、「まっとう」にみられればいいわけであって有能でなくてもよい。それは背伸びとか成長とか改善とか進歩とかイノベーションとか自己啓発などとは別次元の問題となる。自分がクソとして認識されなければとりあえずはOKなので、まっとうという衣をはおるか否かという絶対評価ですむのだ。
自分は会社での地位が低いため自分にとっての「まっとう」はごく一般的な事柄で済む。「有能」は違う。有能は相対評価だから本当にできるやつと張り合う必要がある。
そうするとクソであると認識していた環境こそ、クソである自分を隠すことができるブッシュであるということに気づく。
クソ環境の中でおぼれないよう有能であるようにふるまうか、クソ環境の中で環境に溶け込むようにひそむか。
どちらが労力が低いかは自明である。
ただ一つ、人間は希望がなければ生きていけないというのもまた真である。
ここクソ環境での希望は、有能であることの証を得ることではない。
クソ環境から脱出することである。
その時俺は「クソ社員」からも卒業できる。
それは「セミリタイア」しかない…